■■■ 12. forget 「…ン…。」 すーすーと寝息を立てていた悟空の、柔らかな唇から何か言葉が漏れて。 三蔵はじっと、その口の動きを見ていた。 一瞬自分の名前を呼ばれたような気がしたのだが、どうやら違うらしい。 悟空の口が綴ったのは、4文字の文字ではあるが、最後が『う』でないのは確かだ。 「コン…ゼン…。」 一体なんの言葉なのか。 意味がわからずにそのままじっと悟空を見つめて。 さらりと悟空の茶色い髪が流れて、悟空の頬にかかる。 それが少しだけ、三蔵は気になった。 月明かりに照らされた悟空の頬に手を伸ばして―――三蔵の指が触れようとした瞬間。 「いかな…で。」 つつーっと。 悟空の頬を濡らした雫と。 悟空の口から漏れた言葉に。 三蔵の指がぴくりと動いて。 そのまま悟空の頬に触れることはせずに。 自分の口に咥えたタバコへと向かった。 『コンゼンって誰だ?』 聞けばいいとわかってはいるが、聞けないでいた。 聞けないのに気になるから余計に腹が立つ。 三蔵がイライラしているのを察しているのか、悟空はあまり三蔵に近寄ってこない。 ソレが更にまた三蔵をいらだたせたのだけれども。 昔の記憶が無いといっていた悟空。 自分と初めて会った時に、初めて誰かの名前を知り、誰かの名前を口にしたと嬉しそうに笑っていた。 となると、昨晩悟空が寝ながら呼んだ名前は、失う記憶以前に知り合った人物なのだろう。 悟空と知り合ってから毎日のように悟空の話は聞かされていたから、悟空が知り合った人物で、自分の知らない人物はいないはずだったから。 ただ、名前を呟いただけなら、こんなに気にならないのかもしれない。 涙。 悟空の、涙さえなければ。 『いかないで。』 その言葉さえなければ、ここまで気にならなかったのかもしれない。 それどころか『コンゼン』が、誰かの名前だと、気がつくこともなかったのかもしれない。 悟空のその言葉は、涙は、いつだって自分にだけ。 自分にだけ向けられるものではなかったのか。 「さん…ぞ?どうしたんだ?今日。」 少しおびえたような瞳で、悟空が三蔵を下からのぞきこんでくる。 こういうところが動物だというんだ。 人の気配。人の心の気配に、敏感に何かを感じることができる悟空。 理屈じゃなくて、感覚で感じるのだろう。 いたっていつもどおりにしていたつもりの三蔵には、悟空のこの言葉がまたイライラを煽るものだった。 「………。」 「てめぇは…記憶がねぇっつったな。」 「え?あ…うん。気がついたらあの岩牢にいて。三蔵がくるまでずっと、あそこで…。」 「そうか。何も?本当に何も覚えていないのか?」 「三蔵変だよ。そんなこと今まで聞いてこなかったじゃんか。忘れたもんはしょうがねぇし、どうしようもねぇって、言ってたのに!!」 大きな瞳をさらに大きくさせて。 悟空が声を上げる。 まるで触れられたくないことに、触れられたみたいなそんな悟空の表情に、三蔵は小さく舌打ちをした。 「…本当に何も覚えていないけれど。でもたまに。頭の中をチラチラと何かが掠めるんだ。たまに三蔵と町を歩いていて、ふっと…ああ、昔もこうして歩いたな。とか、三蔵を祭に行って…昔こんな風に祭に行って…りんご飴を買ってもらったな。とか。なんとなく、懐かしい感じとかたまにして。」 ふるふると震える悟空の拳を、じっとみつめる。 三蔵は愛用のタバコを1本取り出すと、それを口に咥えた。 「誰と?」 「え?」 「誰と町を歩いたり、誰に買ってもらったんだ?」 「……わかんない。」 泣きそうな悟空の瞳に、イライラが募る。 これは悟空に対してじゃないこともわかっていたが、この怒りをぶつける先がないのも確かで。 醜い感情に吐き気がした。 「三蔵…忘れることは…罪かな?」 「…………。」 「俺、別に忘れて寂しいとか、悲しいとか、そういうこと。感じたこと無いよ。だって今別にさみしくなんてねぇもん。三蔵がいて、悟浄も八戒もいて、楽しくて。でもたまに…それは、昔俺の周りにいた人たちを裏切っているのかなって思う。」 「…何足りない頭で難しいこと考えてんだ。てめぇは。」 「………俺、もしまた長い年月を一人で過ごすことになって、三蔵や悟浄や八戒たちのこと、忘れんのかなって思ったら…怖くなった。」 ふるふると拳を振るわせる悟空の頭を、ぐいっと抱き寄せる。 今にも泣きそうだった悟空の顔を、自分の胸に押し付けて。 三蔵は火のついていないタバコを、そのまま投げ捨てた。 「こんなに好きなのに。忘れることなんてあるのかな?忘れたりするのかな?そしてそれは…三蔵に対して。すごく罪な気がするんだ。」 悟空の掠れた声に、悟空が泣いているのだとわかる。 普段聞かなかった悟空の本音なのだろう。 自分の醜い嫉妬から始まった口論で、悟空の本心を曝け出させてしまったことに、わずかながらに後悔した。 もっと悟空の心が落ち着いてから、この件に関しては触れるべきだったのかもしれない。 「忘れることは罪じゃねぇよ。」 「でも…。」 「忘れたらまた作ればいい。今みたいに。」 「でも!俺はそうして三蔵以外の人となんてっ…!!」 「ざけんな。誰が俺以外とだと言った。」 「さんぞ…。」 顔を上げようとした悟空の頭をそのまま押さえつけて。 三蔵はぐりぐりと悟空の頭をかき抱く。 「うるせぇんだよ。てめぇは。何年たとうと、何百年たとうと。どうせ俺がまたお前を迎えに行くんだろうから待ってろ。」 「………わかった。」 すんっと鼻をすする音が聞こえて、悟空の拳に力がこめられる。 悟空の手がぎゅっと握った自分の法衣に皺が寄るのを、じっと見ながら。 三蔵は微笑った。 →忘却 |