■■■ 切望 流石に誰かが部屋に入ってきたのに気がつかないほど、自分には余裕がある現状ではなかった。 それにその人物が入ってきた時に感じた気配も、鼻腔を擽る香りもどれもそう遠くはない昔からよく知るものだったから。 枕の下に忍ばせた短剣に手をかけることもなく、ただ、その人物の動きを様子見ていた。 きしり。きしりと、床が軋む音がして。 相手も気配を消す様子はないし、音を消す様子もない。 だから――――。 「こんな夜中に、なんの用だ?」 相手は自分に、起きてもらいたいらしい。 いや、起こさないこと事体が無理だと最初からわかっていたのかもしれない。 「どうしてここがわかった?」 同じ宿をとったとはいえ、彼女達に会ったわけではない。 だから自分がココの部屋にいることを、彼女がどうやって知ったというのか。 いや、そんなことは今更どうでもいいことだが。 「あなたが、傍にいて―――わたくしが気がつかないとでも思いますの?」 「………。」 「なんて―――そうできたら、どんなにいいことかしら。あなたがここに入るのを、たまたまみかけただけですわ。」 「ナタリア。」 「はい?」 そう。ナタリア。 幼い頃から、よく知る、唯一無二の存在。 「こんな時間に、男の部屋に来るもんじゃない。さっさと戻れ。」 ナタリアには背を向けたまま。 軽くため息をついた。 やはりこの宿をとったのは、間違っていた。 陽が暮れたとはいえ、さっさと違う街に移動すればよかった。 いや、陽のせいとか、宿が1つしかなかったからとか、そういうのはただの言い訳だ。 ただの、未練がましい自分のせい。 扉一枚隔てた向こうでもいい。 コイツの気配が感じられたらと。 思ってしまった自分の、未練がましい感情のせいだ。 「軽蔑しました?」 「…いや。」 「ふしだらな女だと?」 「………いいから戻れ。」 振り返れない。 振り返りたくなかった。 鼻を擽るこの香も、凛とした声も。 離れていた間、ずっと、ずっと。 もう一度と願っていたものだ。 あともう1つ。 それを感じれば。 2人きり。 暗闇。 そして、愛しい人の、体温。 それが揃った瞬間、離れていた間につもり積もった感情に、蓋なんて出来るわけがないから。 「戻れ。」 「嫌ですわ。」 「ナタリア!」 「軽蔑されも!ふしだらだと!思われてもいい!!それでも、わたくしには欲しい物があります。」 「ナ…。」 きしりと、ベットが軋んで。さっきまで自分ひとりの重みしか受け止めていなかったベットが、2人分の重みを受け止めた。 肩に触れた、少しだけ震えた手。 「あなたが――――欲しい。」 「バカな…ことを――――。」 言うな。 言いかけた言葉を呑む。 震えた手が、自分の肩を引き寄せて。 背を向けていたほうを、ムリヤリ向かされた。 耳まで真っ赤に染まって、少しだけ涙目で。 唇を噛み締める少女に、思わず息を呑んだ。 自分の知っていた、幼い頃の少女にはなかった。 プロポーズした時に見せた、すこしはにかむように笑うあの幼い笑い方をした少女は、いつの間にこんな表情をするようになったのだろう? 「あなたはいつも風のように現れて、風よりもはやく去って。次にいつ会えるのかも、もう二度と会えないのかも、わからなくて…。」 「ナ…。」 震える唇に、震える瞼。 堪えていたらしい、涙がじわりと彼女の瞳を益々潤いのあるものへとかえていく。 「だから、今、ココであなたを感じたい。」 目じりに浮かぶ涙を、指で拭った。 真剣な瞳に、吸い込まれそうになる。 「抱いて。」 直接的にいわれて、どきりと心臓が音を立てた。 綺麗な金色の髪が、月夜の明りに蒼白く輝いて。 真剣に自分を射抜く瞳に、こくりとつばを飲み込んだ。 「貴方が今ココで抱いてくれなかったわ、わたくし、死ぬまで処女のままですわ。」 「ナタリア。」 「女として生まれてきたのに、好きな人に抱かれる喜びもわからないなんて悔しすぎですわ。だって貴方以外に抱かれるつもりは、今もこの先もないですもの。」 「………。」 「わたくしが好きなのは未来永劫、アッシュ。あなただけですわ。」 「バカな…奴だ。」 バカだと思った。 なんて、バカで、愛しいのだろうと、思った。 「バカですって!?アッシュ、あな――――。」 自分の肩に置かれた震える手を、そっととった。 そしてその手に、プロポーズをしたあのときと同じように。 唇を近づけて。 「ナタリア。愛している。」 「アッシュ!」 驚き見開かれた瞳。 自分の名前を呼ぶ、その小さな唇にそのまま吸い付いて。 彼女が次の言葉を紡ぐ前に、柔らかな唇を塞いだ。 「あっ…。」 何もいわなくていい。 もうこれ以上。 これ以上、好きな女に恥をかかせるつもりはない。 あとがき
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